GREEN WISE

東光園物語

株式会社グリーン・ワイズは、1905年に「東光園」という名前で田丸亀吉が創業。
日本初の貸植木業をはじめました。
その歴史を100周年を機に2代目 田丸雅敏と振り返ります。

「創業者・亀吉から受け継いだ信念と哲学は、社員ひとり一人の遺伝子のなかに生き続けている」
2代目 田丸雅敏

1905年創業

創業者・田丸亀吉は10代の半ばから新宿御苑で働き始め、明治38年(1905年)、若干17歳で独立。恩師である西島久一技師の命名で渋谷東光園と名乗り、貸植木、温室植物栽培、造園業を始めました。また、実直な働き者だったおかげで周囲の人からのバックアップも受けたようです。従業員を大切にする人間でした。困っている人がいれば、自分のことを投げうってまで相手を助ける懐の大きさがありました。人を惹きつける人間的魅力があったのでしょうね。体が強く、また商売的な才覚、先見の明もあったのだと思います。

温室などというものは日本ではまだ、数えるほどしかなかった時代。恵比寿の地に自前の温室を造り、当時では珍しい会社のパンフレット制作という斬新な試みもしました。

1912年日本初のビジネス

大正に入り、安定した収益を出せないものかと考えた末、日本初の貸植木を開始。その頃はトラックなどなく、荷車を引いて下町まで運搬しました。

六本木の急な坂が難所でしたが、素人相撲の大関まで張った亀吉は、持ち前の強靭な体で黙々と運び続けたそうです。その頃は信楽焼などの鉢に一尺八寸の大きな植木を入れていたので、今の人なら二人でも持てないくらいの重さですよ。それを当時の職人たちは一人で軽々と運んでいたのです。また、自ら勧進元となって、氷川神社に本職の力士を呼び大相撲大会を開催したというエピソードも残っています。本人は「もう少し上背があれば相撲取りになっていた」と話していたものです。

その後、蓄えた資金で購入した馬や牛に荷車を引かせ、さらに業務を拡大していきました。亀吉と妻・はなは本当に名コンビでした。経理方面が苦手だった亀吉をはながうまくサポートし、二人三脚で東光園の創生期を築いて行ったのです。

1921年最初の大仕事

大正10年には明治神宮の地鎮祭を担当。神宮の森は実は人工の森なんです。東光園は、あの森の5万本の木を植えた一社なのです。この時、植物を使ったディスプレイの装飾も手掛けました。当時から、既にそうした革新的な事業も始めていたわけです。

1923年最初の試練

ところが運命のいたずらか、神の与えた試練なのか、大正12年(1923年)、未曾有の大惨事が東京を襲いました。関東大震災です。貸植木が全て消失、温室も被害を受け、何もかも失ってしまったのです。経理担当で肝っ玉の大きかったはなですらノイローゼ状態にまで落ち込んでしまったといいます。

しかし、不屈の精神で苦難を乗り越え、会社を立て直し、大正の終わり頃にはアメリカから最新のT型フォードを輸入。新しいもの好きな亀吉は大工に作らせた荷台を引いて、東京中を駆け巡ったのです。日本初といっていいくらい初期に”トラック”を作って、植木を積んで走ったわけです。東光園の記念すべき再出発でした。

最初はトラックを黒と茶色の混じった、いわゆる天皇陛下の御用車の色に塗装していました。ところが、警視庁からクレームが入り断念。考えた末、後に画商をした亀吉の弟の提案でオレンジ色に塗り直しました。それが植木のグリーンと見事に映えて目立ち、”オレンジの車は東光園”という宣伝効果が上がったのです。

1926年時代の荒波

昭和に入ると、どんどんお得意さんが増えて銀座や丸の内にも進出。貸植木の需要が高まっていきました。同業者も乱立し始め、その結果、乱売合戦が始まったわけです。そこで、各業者を集めて日本初の東京貸植木業組合を設立し、亀吉が初代理事長に就任しました。

その後、日本の発展と歩調を合わせ順調に業績を拡大していた矢先、日本全土を揺るがす大きな変化が訪れます。太平洋戦争です。東京でも空襲が始まり、仕事どころではなくなってきたのです。貸し植木なんて贅沢品ということになり、会社は閉店休業。苦渋の選択の末、全ての植木を土から引き抜き、鉢も処分。土地は広いですから、食糧となる米や野菜を作って苦しい時期をしのぎました。

1945年戦後の復興

そして戦後の昭和20年(1945年)9月に営業を再開。緑に飢えていた都民の希望にも後押しされ、また新たな一歩を踏み出していったのです。 昭和22年には造園部門を分離独立させ、東光園緑化株式会社を設立。長男の田丸寛が社長に就任しました。

昭和28年、NHKへの貸植木がきっかけでテレビの舞台造園を開始。じつは最初は大道具さんが舞台を作っていたのですが、あまりに植木を粗末に扱うことに亀吉が怒り、当社で造園も担当することになったのです。おかげさまで現在に至るまで、技術力とセンスの高さを評価されています。

1963年先駆者として

昭和38年には屋上などに日本初の人工地盤をパールローム工法で施工。全国の髙島屋での室内造園をはじめ、各所での植栽工事やイベント装飾などでその実力を発揮。先駆者としての確かな技術を各方面から評価、信頼されています。

私にとっての父、亀吉は仕事もプライベートも見たそのままの人でした。お互いにあまり言葉は交わさなくても、行動で教えてくれました。仕事とはどういうものか、そしてなによりも、植物とどう付き合っていけばいいのかを、体で学んでいきました。赤ん坊の頃から農園で育てられてきた私にとって、仕事は家業。大学卒業後、テレビの設計の仕事を経て、昭和33年に入社しましたが、私の人生は東光園の発展の歴史そのものなのです。”安かろう悪かろう”はやらない。自分たちが納得した仕事しかやらない。いいものを作ればお客さんによろこんでもらえるのです。この信念と哲学は亀吉から受け継ぎ、今、社員ひとり一人の遺伝子のなかに生き続けています。

2002年〜そして、平成14年(2002年)、東光園から株式会社グリーン・ワイズに社名を変更し、業界のリーディングカンパニーとしてさらなる発展を遂げています。

「振り返ると、この会社は、時代の先駆けとなる花と緑の歴史に彩られています。これは、初代田丸亀吉から代々受け継がれてきた東光園の遺伝子が、脈々と息づいている証ではないでしょうか。

遺伝子とは、進化し続けることによってのみ継承されていくものだと思います。ですから、人々に花と緑がもっと身近にある暮らしを提供していくためにも、社員をはじめ多くの人たちと共に手を携えながら、これからの21世紀も、常に新しいことへ挑戦し続け進化していきます。

田丸亀吉が10代で創業してから早一世紀。
この100年の歴史を支えて来て下さった全ての方々と植物たちに、感謝の念を捧げます。」

3代目 田丸雄一